Apollo Manroku

2010年以前に書いた記事の過去ログ

ダークナイト 2009年6月3日

Filed under: Entertainment — アポロ @ 04:40

公園に行ってみるとケイさんとパバティさんがいたので、ちょっと立ち寄ってみました。ケイさんは今、本を読んでいるとかで、その内容について話してくれました。占い師である私にも役に立つ内容だろうということです。

本のタイトルは「囚人のジレンマ―フォン・ノイマンとゲームの理論」です。

あとからイナヤさんも来て会話に加わったのですが、私たちが囚人のジレンマの話をしていると、映画好きのイナヤさんは、それと同じようなエピソードが「ダークナイト」(バットマンの最新作)という映画の中に出てきたと言います。私も面白そうだと思ったので、さっそくツタヤに行ってDVDを借りてきました。

さて、映画の内容ですが、主役バットマンと敵役ジョーカーの対決がメインになっています。今回の映画ではジョーカーが主役と言ってもいいほどで、その演技はすばらしく、まさに「狂人」そのもの。最初から最後まで暴れに暴れまくります。

とにかく狂ったジョーカーは、ガソリンや火薬を使って何でもかんでも爆破しまくります。そして、終盤のクライマックスで、ついに、「囚人のジレンマ……」に書かれているようなエピソードが挿入されます。

そこには二隻のフェリーが登場します。ジョーカーはそのフェリーに爆弾の罠を仕掛け、その起爆装置をそれぞれのフェリーの乗客に渡します。一方の起爆装置はもう一方のフェリーを爆破するものとなっており、十二時までにそのスイッチを入れないと、フェリーは二隻とも爆破されてしまいます。ただし、どちらかのフェリーの乗客が起爆装置のスイッチを入れて別のフェリーを爆破すれば、残ったフェリーは十二時になっても爆破しないというのがジョーカーの示す条件でした。

一方のフェリーにはゴッサムシティーの囚人たちが乗せられており、もう一方には一般の市民が乗っています。囚人たちは自分たちさえ助かればいいと考えるので、すぐにでもスイッチを押してもおかしくありません。一般市民の方も助かるのは囚人ではなく自分たちだと考えるので、スイッチを押してもおかしくないわけです。

はたしてその結果は……。さすがに、これだけはここに書くわけにはいきませんね。ただ、それは「人の良心」というものを問うものだったとだけ言っておきます。

この映画には、ジョーカーとの対決の他に、もう一つ重要なテーマがあります。地方検事のハービー・デントとの対決です。対決というか、お互いを認め合うライバルのような感じでしたね。

ハービーは検事として、法に従った正しいやり方で犯罪者たちを検挙してゆきます。それに対してバットマンは法の枠を超えた強引なやり方で、力ずくで犯罪者たちを追い詰めています。ハービーが表舞台に立つ「正義のヒーロー」ならば、バットマンは裏の世界で暗躍する「暗黒の騎士(ダークナイト)」というわけです。

私も今まではバットマンのことを単純に「ヒーロー」だと考えていましたが、この映画を見て、よくよく考えてみると、確かに、彼のことは「ヒーロー」とは言えないような気もしてきました。

バットマンは自らの信念のために戦っています。しかし、彼の行為は法を犯すものでもあり、市民の中には反感を持つものもいます。悪を討つためにはやむをえないこととはいえ、やはり、彼の行為を「正義」として全面的に許容するわけにはいかないかもしれません。

彼は孤独でした。たった一人で悪と戦い、世間からも非難され、その上、(片想いの)恋人のレイチェルからも見放されてしまいます。彼がバットマンである限り、レイチェルは彼を受け入れることができなかったのです。

バットマン……というより、その正体であるブルース・ウェインは自らも悩みます。バットマンのやっていることは間違っている。ハービーこそ、人々が求める真のヒーローだと考え、バットマンの仮面を脱ごうとします。バットマンの仮面を脱ぎ去れば、レイチェルも自分を「普通の人」として受け入れてくれると考えたことでしょう。

しかし、レイチェルが最後に選んだのはハービーでした。(ブルースはそのことは知りません。)

結局、彼はバットマンの仮面を脱ぐことができず、人殺しの罪を背負って追われる身となり、ゴッサムの闇の中へ消えてゆきます。

エンディングの後は、なんだか、救いようのない、とても悲しい気分になってしまいました。

ただ、世間の人はどう思うかわかりませんが、私はこのバットマンに深く共感しました。私もまた、「タロット占い師のアポロ」という仮面をかぶって、日々戦い続けているからです。そして、その仮面ゆえに、孤独でした。

「占い師」という職業は世間からは認められにくく、私は、自分の親からさえも認められていません。一般社会においてもそうですが、仮想世界のセカンドライフのような社会の中でも誤解されたり偏見の目で見られることはたびたびあります。

かといって、同業者同士でうまくやっているかといえばそうでもなく、お互いの信念の相違などからトラブルに発展することも頻繁にあります。私も頑固者なので、どこへ行ってもつまはじき者にされることが多く、いつも「一人」で戦わなければなりません。

想いを寄せる恋人に受け入れてもらいたくて「アポロ」の仮面を脱ごうとしたこともあります。私は、彼女にすら「占い師」という目で見られていることが辛かったのです。

それでも、結局は、私は「タロット占い師のアポロ」であり続けました。これからも、ずっと「アポロ」の仮面をかぶり続けることでしょう。

私には、私なりの信念がある。バットマンがそうであったように、たとえどんなに孤独であろうとも、私もそれを貫き通さなければならないのです。そういう意味では、私はこの映画に、大いに勇気付けられたと言ってもいいかもしれません。

 

ダークナイト」は娯楽作品としても最高の出来ですが、いろいろと考えさせられるところも多く、私にとっては心に残るすばらしい映画でした。

 

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松本人志は天才か 2008年7月8日

Filed under: Entertainment — アポロ @ 22:23

ダウンタウンの松本人志という人のことを「天才」と呼ぶ人がいます。テレビを見ていると、多くの人が彼のことを天才と言っていますが、私にはさっぱり意味がわかりません。

テレビに出ている松本さんは少しも面白くないのですが、テレビに出ていないところで何かすごいことでもやってるんでしょうか?

なんだか、周りの人がみんな彼のことを「天才」と言っているから、自分も「彼は天才だ」と言わないと白い目で見られるとか、そういう理由でもあるのでしょうか。いわゆる、芸能界での大御所に対する「ヨイショ」みたいなもの?

天才のやってることは、私のような凡人には理解できないということかな。

なんだか、王様の耳はロバの耳みたいな話ですね。「松本さんは天才だ」といわないと、自分は凡人だと思われてしまう……みたいな。

 

 

 

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シルクロード・オンライン 2008年3月24日

Filed under: Entertainment — アポロ @ 23:49

つい先日、ゲーム会社のセガが開発中の iAinternet Adventure)というものがあることを知って、3D仮想世界にもまた新しい波が来るのかなというような気がしました。iA はまだベータテスト中なので一般の人が利用できる状態ではありません。

たまには3Dの仮想世界で遊んでみたいと思ったのですが、以前紹介したスプリュームには完全に失望させられたので、他に何か良い物がないかと探してみました。

しかし、セカンドライフなどをはじめ、新しく出てきた3D仮想世界のサービスはどれも高性能なパソコンが必要で、私のパソコンでは厳しいものがほとんどです。そのようなサービスは当然ながら、私以外の一般の人だって気軽に利用できるものではありません。どう考えても、今の段階で3D仮想世界の普及というのは無理があるように思えました。

そこで、ターゲットを少し変えて、3Dのオンラインゲームということで探してみました。ゲームの場合には比較的性能の低いパソコンでも動くものがいくつかあるようなのです。そういう触れ込みで紹介されていた「シルクロード・オンライン」というゲームをみつけたので、さっそく試してみました。

シルクロード・オンラインは、紹介されているサイトでの評価はまあまあよくて、初心者でも操作が簡単で楽しめると書いてありました。低スペックのパソコンでも動作して、しかもグラフィックもきれいだとか。これはかなり期待できそうでした。

ゲームのダウンロードを始めてびっくりしたのですが、ファイルのサイズは 900MB 以上もあって、ADSL の回線でもかなり時間がかかってしまいました。

ともかくインストールも完了し、アカウントを登録してさっそく始めてみました。キャラクターの作成はそれほど選択肢も多くはなかったので短時間で済みました。見た目で個性を十分に出せないのは物足りない感じがしましたが、ゲームなのだから外見はそれほどこだわる必要もないのかなと納得しておきました。

セカンドライフなどの仮想世界では、その世界の中で自己表現できることが重要なのですが、ゲームの場合はキャラクターのアクションや成長などを楽しめればそれでよいという考え方だと思います。両者の違いは微妙なところなのですが、あえて区別するならばそういうことなのでしょう。でも、最近のゲームではキャラクターの外見をかなり高度にカスタマイズできるようになってきているように思えます。結局、オンラインゲームの世界も仮想世界として認識され始めているということだと思います。

さて、キャラクターが出来上がり、ゲームを開始すると、いきなりわけがわかりません。どうやってキャラクターを移動させるのかということもわからず、ようやくわかってきても、今までにない操作方法になかなか慣れることができません。とても初心者向けのゲームとは思えない難しさです。操作していても少しも「楽しい」と思えないのですから、もはやゲームとしても失格です。

時間をかけてダウンロードしたのだから、それなりに遊ばせてもらおうかと思ったのですが、あまりにひどい操作性にストレスがたまるばかりだったので、あきらめてゲームは止めにしました。すぐにアンインストール。ウィンドウズの復元機能を使って、インストール前の状態に完全に戻して、全てなかったことにしました。

最近のゲームは技術も進歩していて、グラフィックもきれいだし、いろんなことができるようになってきていてすごいとは思いますが、ダウンロードやインストールのリスクも大きくなっています。せっかく苦労してインストールしても「ハズレ」のゲームも多いようです。これでは、ちょっと試しにインストールしてみようという気にはなかなかなれません。気軽に楽しめるものって、案外少ないのかもしれませんね。ゲームを楽しむにも、それなりの「覚悟」が必要になってしまいます。

なんだかパソコンの世界は技術ばかり進歩して、いつも人間を置き去りにしているような気がしてしまいます。

そろそろ、パソコンのほうが人間に合わせる時代は来ないものでしょうか。(むしろ、それが本来のコンピュータのあり方であったはずだと思うのですが。)

 

 

 

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ワールド・トレジャー 聖なる予言 2008年3月13日

Filed under: Entertainment — アポロ @ 19:43

ツタヤで借りてきた DVDワールド・トレジャー 聖なる予言」を観ました。

この映画が公開されたのは2006年ということですから、もう年も前になるのですが、私がこの映画の存在を知ったのはつい先日のことです。何かの検索をしている最中に「偶然」このタイトルの映画を紹介しているブログを見つけたのです。

このタイトルに副題のように添えられている「聖なる予言」ですが、これは、十数年前に書かれたベストセラー小説のタイトルです。ジェームズ・レッドフィールド/キャロル・アドリエンヌ著、原題は「The Celestine Prophecy」です。日本語訳は山川絋矢・亜希子さんらが行っています。

聖なる予言」は私も読んだことがあります。その本を手にしたのはアメリカに留学する直前でしたから、1995年ごろでしょうか。大阪で占いをしてもらった時に、占い師との会話に出てきた「聖なる予言」という本を「偶然」本屋で見つけ、暇つぶしのつもりで買ってきて読んだのです。その本は、その後の私の人生を導く手がかりとなりました。

聖なる予言」は私にとってはとても重要な意味を持つ本で、この本をテーマにしたホームページも作っていました。今では私自身でさえそのホームページの存在をすっかり忘れているほどでしたが、映画の存在を知って久々に思い出しました。

ツタヤでは自分で探しても見つからなかったので店員さんに聞いてみました。「聖なる予言」ファンの私でさえ知らなかったマイナーな映画は店員さんでも知らないかもしれないと心配でしたが、「ワールド・トレジャー」というタイトルを告げると「はい」と言ってすぐに探してくれました。普通はマイナーな DVD 枚くらいしか置いてないものですが、「ワールド・トレジャー」は意外と何枚もの DVD が置いてあって、もしかして人気があるの?とか思ってしまいました。頻繁に借りられていれば店員さんも覚えているでしょう。

「ワールド・トレジャー」などというタイトルを見ると、ニコラス・ケイジ主演の「ナショナル・トレジャー」を連想してしまいますが、関係はありません。DVDのジャケットに印刷されたイラストなどを見ても、まるで「インディ・ジョーンズ」ですが、内容はまったく違います。これらはおそらく商業的な目的で付けられたタイトルやイラストなのでしょう。

ただし、私が初めて「聖なる予言」の小説を読んだときのことは、「まるで『インディ・ジョーンズ』のようだ」と感想を述べています。映画の方は時間的な制約もあり、十分に冒険活劇的な要素を盛り込むことができなかったのかもしれません。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、実際にこの DVD を鑑賞した感想も少し書いておきます。

この映画は、私のように原作の小説を読んでいる人なら、その内容を忠実に再現していく映像に納得することができるとは思います。私の小説の記憶はあいまいなので、実際にはどの程度忠実に再現されていたかは定かではないのですが、以前に抱いていた小説に対するイメージが壊されることもなく、非常に良いできばえだと思いました。

しかし、ほとんどの人は最初から最後まで、いったい何が起こっているのか理解できないのではないでしょうか。特に、一番最初のシーンとなる主人公がペルーに出発する動機の説明から意味不明なので、見ている人はなかなかストーリーにのめりこむことができないかもしれません。

小説を読まずにこの映画だけを見た人には、精神世界スピリチュアル)というものは一般人には理解しにくいものだというような印象を深めてしまったかもしれません。そういう意味では、誰にでも「ぜひ観てください」とお勧めできるような映画ではないかもしれません。

映像についてはとても美しいと思いました。特に、深い緑の森を映した映像は心に沁みますね。まさにこの「」こそ、「聖なる予言」のイメージです。特殊効果などは少し安っぽいところもあり、芸術的な表現は下手なところもありますが、やりすぎておらず、控えめに抑えられているので、それほど印象は悪くはありません。

控えめに抑えられているのはストーリー展開自体にも表れていて、クライマックスらしいシーンも特にありません。淡々と物語りは進み、興味のない人にとっては睡魔との闘いとなってしまうかもしれません。こういったところは、一般の娯楽作品とは作り方が違うのかもしれません。

一応クライマックスは最後の方の「第九の予言(知恵)」が出現するシーン(原作にそんなものがあったでしょうか?)だと思うのですが、そこで何が起こるのかというと、ついには主人公とその仲間たちは「知恵」の効果によって光のような存在になってしまい、普通の人たちには「見えなくなってしまう」のです。淡々と進んできたストーリーのクライマックスが「見えなくなる」だなんて、もう、この映画の存在自体が希薄になって、今まで何を見てきたのかすらわからなくなってしまうほどです。

しかし、これはとても興味深い表現でもあります。

そもそも、スクリーンに映し出される映像なんてものは光の作り出す影に過ぎないわけで、その実体などはどこにもありません。主人公たちが光のような存在になって見えなくなるという表現は、案外、この現実の世界の真実を暗示しているのかもしれません。私たちがこの世界で「実体のあるもの」と感じている物も、ただそう思い込んでいるだけなのかもしれないのです。

DVD を観終わると「自分も旅に出てみたい」という衝動がこみ上げてきます。導かれるままに人と出会い、神秘的な体験をして、新しい世界を見てみたいと思うのです。

今、このタイミングでこの DVD に出会ったことも、「単なる偶然」ではありません。それは、「意味のある偶然シンクロニシティ)」なのです。私は、その意味を理解する必要があるでしょう。

そして、この記事を読んでしまった「あなた」も、私と同様にメッセージを受け取ったことになります。あなたも、その意味を考えてみませんか?

導かれるままに。

 

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音楽番組を見ない理由 2008年3月10日

Filed under: Entertainment — アポロ @ 23:30

テレビの音楽番組というのはまったく見ないのですが、先ほどたまたまダウンタウンの「ヘイ!ヘイ!ヘイ!」という番組を見ました。

4人の女性歌手がゲストでした。松田聖子さん、安室奈美恵さん、中川翔子さん、そして、aiko さんですね。(aiko さんの小文字の英単語はやめてもらいたいですね。縦書きでは読みにくいじゃないですか。)

4人ともお綺麗で、見ているだけなら悪い気はしません。aiko さんは名前は変ですが、顔はかわいい。好きですよ。でも、しゃべっているのを聞くと、ちょっとムカッときました。

ああ、これが私が歌番組を見ない理由なんだなと、初めて自分でも認識しました。

しゃべっている内容はそれほど悪いわけではありません。ただ、なんとなく感じるんです。表面には表れませんが、彼らはみな「王様」「女王様」なんです。

 

そんな感じの、強いプライドがどこかにあって、彼らのしゃべりや歌を聴いていると威圧感のようなものを感じてしまうのです。私は、それが怖くて音楽番組から逃げているのかもしれません。

だいたい、人前で歌を歌おうなんていう人たちですから、自己顕示欲が強いのは当然です。そうでなければ芸能界ではやっていけないのでしょう?

一見腰が低そうなしょこたんだって、人前ではぺこぺこしながら、実は心の中では「自分が一番」と思っているに違いありません。どんなに隠してもどす黒いオーラがちらちらと見えていますよ。彼女自身、パフォーマンス(リップサービス?)として、自らを「貪欲」と公言してしまっていますが、そこには自分でも気づいていない本心が隠されていると思います。

そんなわけで、私は歌番組を見ないし、彼らの歌う流行歌も聴きたいとは思いません。どんなに良い曲であっても、歌い手のカリスマ性を押し付けるために作られた都合の良い道具に過ぎないのです。本当にその曲が良いものであれば、歌い手など誰でも良いはずです。

最近は古い曲や他人の歌を「カバー」することが流行っていますよね。先ほどのゲストの安室奈美恵さんもカバーアルバムか何かの宣伝でテレビに出ていたのでしょう?

良い曲はカバーされ、歌い継がれてゆくでしょう。でも、結局それも、歌手たちにとっては自分を売り込むための便利な道具に過ぎないわけです。歌を売りたいわけではなく、自分を売りたいだけなのです。そのために過去の名曲を利用するのはズルイと思いました。彼らが必ず主張する「歌を愛している」なんてセリフも建て前にすぎません。本音など、絶対にテレビで語られることはないのですから。

カラオケで素人が歌うのも同じです。流行歌を利用して、その時だけでもスターになろうとするのです。マイクを持ったとたん、誰もが自己顕示欲の塊のように見えてきます。私はとてもそのような空間には居られません。カラオケなど誘われても絶対に行きませんよ。

だから、私はクラシック音楽しか聴けないのかもしれません。クラシック音楽は死者の曲ですから、その威圧感に押しつぶされそうになる心配もないのでしょう。たぶん……。

ふと、そんな風に分析してみたものの、本当のところは良くわかりませんけどね。

明日は TSUTAYA にでも行って CD を借りてこようかと思います。良い曲が見つかればいいのですが。

 

 

 

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漫画の吹き出し 2008年2月5日

Filed under: Entertainment — アポロ @ 23:36

図書館には漫画も少しだけ置いてあります。そのほとんどが手塚治虫さんの作品なのですが、今日は「どろろ」を見つけました。

ちょうど1年くらい前に映画が公開され、私も観に行った(どろろ)のですが、そのころから、いつか原作を読みたいと思って図書館に行くたびに探していたのです。もちろん、映画が公開されたばかりのころは私と同じように原作を読みたいと思った人も多かったでしょうから、図書館の本も常に貸し出し中なのはしかたないと思いましたが、借りれるようになるまで1年もかかったことになります。ずいぶんと長いこと映画「どろろ」の影響は続いていたようですね。

運よく1巻から3巻まであったので、3巻とも借りてきました。先ほど、さっそく読んでみたところです。

久々に漫画というものを読んでみて初めて気づいたのですが、漫画の吹き出しのせりふには句読点が使われていないのですね。これは意外でした。

もしかして、最近よく見かける句読点のないブログ記事などを書いている人たちは、このような漫画の影響を受けているのでしょうか。そう考えると、なんだか漫画ばかり読んでるような「ヲタク」なのかなぁとか思ってしまったり……。

でも、漫画は嫌いじゃないですよ。それに、漫画の吹き出しって、今でもほとんど縦書きでしょ? 漫画を読む人は、きっと縦書きの文章が好きなはずです。本当はみんな縦書きが好きなんだから、ブログでももっと縦書きが広まればいいのに!

 

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どろろ 2007年2月1日

Filed under: Entertainment — アポロ @ 23:53

手塚治虫さん原作の映画「どろろ」観てきました。

原作の漫画やアニメは見たことがないので、特別に思い入れがあったわけではないのですが、命の大切さを描いた物語というところにひかれて、ぜひ観に行きたいと思っていたのです。

最近はあまりテレビを見ていないので、世の中の様子には疎くなっているのですが、それでも、インターネットで配信されるニュース記事のタイトルなどを見ていると、毎日のように残虐な事件が起きているようですね。 バラバラ殺人や幼児虐待、いじめや自殺……。このような事件は、何も今に始まったことではありませんが、最近は特に深刻化しているような気もします。

命の大切さというものに対する認識がどこかゆがんでしまっていて、平気で人を傷つけたり、生き物を殺したりしてしまいます。そういったことへの罪悪感すら抱けなくなっています。

たいていの人は、「自分はそんなことは絶対にしないから大丈夫」と思っているかもしれません。しかし、そう思った時点で、あなたは単に「傍観者」になって現実から逃げているだけなのです。本当に危険なのはあなた自身だという現実には、なかなか向き合うことはできません。

毎日どこかで悲惨な事件が起きていることを知っていても、まるでテレビドラマやハリウッド映画でも見ているかのような錯覚を起こし、「しょせんは他人ごと」としか思えない。そういった、私たち一人ひとりの認識の甘さも事態を深刻化させている要因のひとつではないでしょうか。

そして、ほんの些細なことがきっかけで、その手で命を奪っていたりするのです。気がついたときにはもう手遅れで、後悔することしかできません。

そういったことを憂いていたときに、ちょうど「どろろ」という映画が公開されることを知り、このタイミングで作られたこの映画に興味を持ったというわけです。

公開は先月27日でしたが、週末ということもあり、初日から観に行っても人が多くて大変だろうなぁという気もして、今日まで待ちました。今日はたいていの映画館では「映画の日」ということで、通常は1700円のところを1000円で観ることができます。しかも平日なので人は少ないはず。一番最初の上映時間に間に合うよう、朝早くに家を出ました。

映画館は、以前「ダ・ヴィンチ・コード」を観に行った「岡谷スカラ座」です。それ以来だとすると、もう半年以上も映画を観に行ってなかったことになります。予想通り、中はがらがらでほとんど人はいませんでした。ポップコーンを買ってきて、映画館のほぼ中央の座席を確保。ポップコーンをポリポリと食べていると、昔ロスに住んでいたころ、毎週のように友達と映画館に通って、バターたっぷりのポップコーンを食べながら映画を観ていたことを思い出します。あのころは、映画館に行くのがごくありふれた日常の出来事だったのに ……。

さて、映画の感想ですが、「どろろ」は2時間以上もある大作であるにもかかわらず、最初から最後まで飽きることなく楽しませてもらいました。ニュージーランドでロケをしたということで、背景の美しさにも期待していたのですが、その辺はほんの数カット、いいなぁと思う場面があった程度でした。まあ、背景を見せる映画ではないので、このくらいのほうがバランスが取れていて良かったのではとも思います。時代劇というと、水戸黄門だとか子連れ狼だとかをイメージしてしまうものですが、ロケ地のおかげで、そういったイメージとはまったく異質な空間を作り出すことには成功していたと思います。

思っていたほどおどろおどろしい雰囲気はなく、残虐な場面も少なく(ショッキングな場面はいくつかありますが)、子供が見ても大丈夫なレベルだったと思います。

他の人のレビューなどを見てみると、CGなどで表現する妖怪の技術レベルが低すぎてがっかりしたというような意見をたびたび見かけるのですが、こういった表現は、これくらいのほうがちょうどよかったのではとも思います。リアルすぎると残虐になりすぎるとか、そういうことではなくて、こういうマンガ的なところがあるから映画は楽しめると思うのです。そもそも手塚治虫さんの原作自体が漫画であるわけで、その漫画としての面白さを、実写にしたからといって無理につぶしてしまう必要はないでしょう。実写だからこそ、マンガ的な面白さをどんどん取り入れていって欲しいと思うくらいです。もちろん、リアルすぎて現実との区別がつかなくなるというのも、大変危険なことだと思います。ファンタジーはファンタジーらしく描くべきなのです。

主人公の百鬼丸に妻夫木聡さん。どろろに柴咲コウさん。最初から最後まで、ほとんどこの2人だけで話が進んでゆきます。まるで二人舞台でも見ているような感じです。そういうシンプルな構成なので、非常にわかりやすい映画でした。(関係ないですが、「劇団ひとり」さんも出てたりして。)

男の私が見れば、普通は女優の柴咲コウさんに目が行ってしまうものですが、今回は、妻夫木聡さんがあまりにもかっこよくて、男の私でもほれぼれしながら見入ってしまいました。妻夫木聡さんが出ている作品は今回初めて見たのですが、少なくともこの映画では非の打ち所のない最高の演技だったと思います。やっぱり、ただのイケメンアイドルとは違いますね。

柴咲コウさんのほうは、「どろろ」を演じるという点では見事だったとは思います。ただ、残念なことに、女性としての魅力ゼロの役柄。それは仕方のないことなんですが、なんで柴咲コウさんなのかなぁと、最後まで腑に落ちないまま終わってしまいました。カワイイけれどブサイク(カワブサ?)でした。

悪役(百鬼丸の父)の醍醐影光役に中井貴一さん。貫禄のある演技で、この映画をきりっと引き締めてくれました。百鬼丸のような若者が父を乗り越え大きく成長していくというテーマ(たくさんあるテーマのひとつですが)を描くには最高の配役だったと思います。前半のシーンで、自分の子供を犠牲にしてでも野望を成し遂げようとする醍醐景光が描かれますが、それはまさに、現代のもっとも忌むべき悪を象徴したものといえるでしょう。最後には、逆に自らを犠牲にして子を救うことになるわけですが、今の大人たちも、これからはそういった使命に目覚めるべきなのです。

百鬼丸は自分の体の48ヶ所を魔物に奪われているので、死体から作った人工の体を持っています。最初に出来上がったのが人工心臓。手足のみならず、目も耳も、声もすべて人工です。まるでフランケンシュタインのような体なのですが、魔物を倒すことで奪われた体のパーツをひとつずつ取り戻すことができます。

人工の部分は魔法の力がかけられているのか、刺されてもすぐに傷がふさがってしまいます。心臓すら人工なので、ほとんど不死身です。一度、どろろに心臓を刺されたこともありましたが、もちろん平気でした。

喉を取り戻したときは初めて自分の声で喜びの叫びを上げ、耳を取り戻して初めて聞いたどろろの声に「うるさい」とわめき、取り戻した腕を魔物に噛み付かれて血を流し、苦痛にうめく。目を取り戻して初めてこの世界の美しさ(ニュージーランドの背景が映えます)を知る。体を取り戻すごとに、「なんだか世界が小さくなったようだ」と百鬼丸は言う。

でも、それが生きているということなんだと、百鬼丸が感じていたように、観客もまた気づき始める。

心臓を突き刺しても死なない百鬼丸は、まさに、「命の大切さ」を見失ってしまった現代の我々の感覚を象徴した存在です。そこには、生きる喜びなど感じられるはずもありません。世界はただ虚しいばかり

今こそ、私たちも百鬼丸のように失ったものを取り戻し、「」というもの、「生きる」ということ、そして、「」というものに、真剣に向き合うべきなのです。

この映画の最後に百鬼丸が取り戻した体は「心臓」でした。私はこれを見て救われたような気がしました。体のパーツはまだ半分残っているので、これで最後というわけではないのですが、心臓を取り戻したことで、ようやく生きた血の通う人間らしさを取り戻したような気がしたのです。

百鬼丸はもう不死身ではなくなってしまいました。刺しても傷は消えないし、いつかは死ぬのです。でも、それが、人間らしく生きるということです。限りある命だからこそ、生きる喜びもある。この映画を見て、ひとりでも多くの人にそういったことを感じてもらえればと思います。

必死に生きて何が悪い!

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ルパン三世 2006年9月9日

Filed under: Entertainment — アポロ @ 04:44

ルパン三世のテレビスペシャルが放送されるという情報がどこかのブログに書かれていたので、ちょっと調べてみると、金曜ロードショールパン三世 セブンデイズ・ラプソディ」という番組でした。放送局は日テレです。このあたりではテレビ信州ということになりますけどね。

実はつい先日、DVDの「ルパン三世 風魔一族の陰謀」を借りてきて観たばかりだったので、新作のルパン三世はどんなものかと気になりました。それに、ここしばらくテレビを見ていなかったのですが、わけあって近々テレビを見る予定があります。その放送局がちょうどテレビ信州だったので、アンテナの調整がてら久々にテレビでも見てみようかという気になったというわけです。

ちなみに私の部屋にはテレビはありません。2台あるデスクトップパソコンのうち、普段は使っていない古いほうのパソコンにTVチューナーが内蔵されていて、パソコンの画面上でテレビを見れるようになっています。ただ、パソコンは2台でも1つのモニター(ディスプレイ)を切り替えて使っているので、テレビを見ながら新しいパソコンのほうで同時に作業するといったことはできません。それがわずらわしくてテレビを見なくなったのかもしれませんが……。

とりあえず、今回のテレビスペシャルの感想ですが、せっかく期待して観た割には残念な内容でした。いまいち盛り上がりに欠けていて、だらだらした感じです。何より栗田貫一さんのルパン三世ではどうしても役不足なのです。栗田貫一さんも頑張っているのだとは思いますが、おそらくは、頭の中に作り上げたルパン三世のイメージを無理して演じようとしているのでしょう。そのため、そのイメージの枠から自由になれずに、ルパン三世の魅力が完全に死んでしまっているのです。はじけるようなギャグもなければ、シリアスな場面での渋い台詞もありません。だいたいどの場面でもワンパターンな声になってしまっているのです。次元や五エ門などの貫禄のある声優陣との絡みも栗貫ルパンとではいまいち息が合っていません。

もうひとつ気になったのは不二子ちゃんの声です。声優さんは昔と同じですが、なんだかテンポがのんびりした感じになっていて、おばあちゃんみたいな声になっていました。やっぱり年には勝てないんでしょうか。それとも、今回はたまたまこんな風に演じていただけなんでしょうか。

次元は相変わらず渋いところを持っていきましたが、五エ門のギャグもなかなか面白かったと思います。何より今回は、偶然にも数日前に「ルパン三世 風魔一族の陰謀」を見たばかりです。「風魔一族の陰謀」では五エ門はギャグ一切なしの渋い役で、しかもほぼ主人公です。この超シリアスな五エ門を見た後で今回のテレビの五エ門を見ると、そのギャップがさらに際立って楽しめます。

ところでこの「風魔一族の陰謀」は、ルパン三世だけでなく、その他の登場人物の声優も総入れ替えされている特殊なバージョンのルパン三世です。山田康雄さんもまだ存命中に作られたものだそうですが、私もまだ観たことがありませんでした。声優が変わるとどんな感じになるのだろうと思い、興味本位で借りてきたのでした。

風魔バージョンの声優さんたちもほとんどがどこかで聞いたことがあるような声ばかりでしたが、意外と違和感なくルパン三世になじんでいて好感が持てました。

ルパン三世の声は「ガンダム」のカイ・シデンや「北斗の拳」のシンを演じた古川登志夫さんでした。あまりに自然にルパンを演じていてびっくりしてしまいました。この人のルパンを聞いた後で栗貫ルパンを聞くと、栗貫ルパンがいかに不自然かというのが良くわかります。

五エ門の声は塩沢兼人さんです。塩沢兼人さんも亡くなってしまいましたが、渋くてかっこいいキャラを演じる、とても美しい声の持ち主でした。

このままの声優陣でルパン三世の新作もどんどん作ればよかったのにとも思うのですが、やはり山田康雄さんが存命中はむずかしかったのかもしれませんね。詳しい事情はよくわかりませんが。

なんだか声の話ばかりになってしまいましたが、アニメにとって声っていうのは、それだけ重要なものなんでしょうね。声優さんがどう演じるかによって、その作品のイメージもがらりと変わってしまう。

声の力もなかなかあなどれません。

 

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毎日モーツァルト 2006年6月17日

Filed under: Entertainment — アポロ @ 15:06

NHKの衛星放送で「毎日モーツァルト」という番組が放送されているそうですね。モーツァルト生誕250周年を記念した番組だそうで、月曜日から金曜日まで毎日放送されているので「毎日モーツァルト」ということらしいです。私は衛星放送を受信していないのでこの番組をテレビで見ることはできないのですが、インターネット上で無料配信されている動画コンテンツがあるので、そちらで見ることができました。NTTのフレッツ・アクセスサービス(フレッツADLSとかBフレッツとか)を利用している人だけしか見ることができないのですが、「フレッツ・スクウェア」というサイトの中の「音楽」カテゴリーの中に「毎日モーツァルト」があります。私がこのコンテンツに気が付いたのは今年の春ごろで、既に第50回前後が放送されている時だったと思うのですが、フレッツ・スクウェアでは第1回からすべての過去の放送も見ることができたので、私も第1回から順番に見させてもらいました。

最近は手持ちのCDもほとんどないので、クラシック音楽を聴く機会もそれほど多くはなかったのですが、「毎日モーツァルト」を見ていると、そこで流れるモーツァルトの曲のほとんどが耳になじんだ曲ばかりだということに気づきました。自分でもすっかり忘れていたのですが、昔はクラシック音楽のCDもたくさん持っていて、カセットテープに録音してヘッドホンステレオ(ウォークマンみたいなやつ)で聴いたりしていたのです。そのころは仕事や趣味で走って(駅伝とかロードレースとか)ばかりいたのですが、腰に巻いたウェストバッグの中にヘッドホンステレオを入れて、走りながらクラシック音楽を聴いていました。そのとき聴いていた曲のほとんどがモーツァルトだったのです。普通はロックなどのテンポのいい曲を聴きながら走るものだと思いますが・・・。

当時はそれほど好きで聴いていたわけではなくて、モーツァルトを聴くと頭がよくなるだとか、アルファ波が出て集中力が増すだとかいう情報を鵜呑みにして闇雲にモーツァルトばかり聞いていたようなものです。どちらかというと、バッハのオルガン曲やベートーベンの交響曲などのほうが、当時の自分の感性に合っていて好きでした。モーツァルトは、何度繰り返し聞いてもいまいちピンとこなかったのです。交響曲の25番や40番、ピアノ協奏曲のいくつかの短調の曲などには当時の感性にも響いたらしく、好んで聴いていたような気もしますが。

久々にモーツァルトの音楽に触れてみると、どれもこれもが懐かしく、昔、ランナーだったころの思い出とともに、当時の様々な感情がよみがえってきます。自分でも気づかないうちに、モーツァルトは私の魂にしっかりと染み付いていたようです。まるで子守唄のように安らかな気持ちになります。もっとも、ランナーだったころの思い出は辛いことばかりですが、今になってみればいい思い出です。人生のうちで、もっとも熱く激しく、まさに「走っていた」時代ですが、そんな修羅場の中で、私はモーツァルトと共にあったのです。

今の私にはバッハのような厳粛な音楽や、ベートーベンのような激しい感情の音楽よりも、モーツァルトのような自然に流れる軽快な音楽がちょうどいいようです。理屈ぬきで楽しめ、不思議と心が安らぎます。

「毎日モーツァルト」を観ながら、モーツァルトが生きた、今から250年前のヨーロッパというのは、モーツァルトのような音楽家にとってどのような時代だったのかと、ふと考えることがあります。当時の音楽というのは、主に貴族が楽しむためのものだったようです。他には、教会などで演奏される宗教音楽にも需要があり、モーツァルトはそういったところで就職口を得て生活していたようです。イギリスなど、市民の地位が向上しつつあった国などでは、一般市民向けの演奏会なども行われるようになってきていたらしく、音楽はじょじょに市民にも広がっていた時期だったようです。

ただ、現代ではクラシック音楽はあくまでクラシック(古典)であり、それほどポピュラーな音楽とはいえません。現代では、いわゆる流行歌、CDシングルにおさまるような3分から5分程度の、カラオケでも歌えるような曲でないと売れないわけで、もしモーツァルトが現代に生きていたら、そういう分野で活躍していたのかなぁとか考えてしまいます。モーツァルトの時代には、彼の作る曲はもちろん、当時の最先端の流行だったと思うのです。当時の人々は、そんな音楽に熱狂していたのかもしれません。

私は最近の流行歌はほとんど聴かないのであまり詳しくはないのですが、たまに弟にCDを借りたりして聴いてみる曲は、しばらくするとすぐに飽きてしまいます。後になってまた繰り返し聴いてみたいという気にはほとんどなれません。ところが、クラシック音楽などは何度聴いても飽きないし、聴くたびに、その時々で違った感じ方ができます。結局、手元に残るCDはクラシックだけということになってしまうのです。今回の「毎日モーツァルト」では、そういうことをつくづく感じさせられました。

実は、もうひとつ書きたいことがあったのですが、だらだらと長くなってしまったので、次回に書くことにします。ところで、「モーツァルト」って、キーボードで入力しにくいですね。"moーtsaruto"と入力します。

 

オーメン 2006年6月5日

Filed under: Entertainment — アポロ @ 13:11

DVD で「オーメン」を観ました。実は先週のうちに借りてきていて、もっと早めに記事を書こうと思っていたのですが、なかなか観る暇がなくて、もう 1 週間レンタル期間を延長(というか普通に借り直し)して、つい先ほどやっと観ることができたところです。以前にも 1 度観たことはありましたが、やはりタイムリーな話題として、もう一度観ておこうと思ったのです。

何がタイムリーかというと、お気づきの方も多いかとは思いますが、今年 2006 年の 6 6 日は、その日付に 6 3 つ並びます。つまり、「666」という数字が表れる特別な日なのです。この数字は、映画「オーメン」の中で重要なキーワードとして扱われており、それに合わせて、今年リメイクされた新しい「オーメン」が 6 6 日に公開されることになっています。もう明日のことなので、この記事も明日投稿した方がよりタイムリーな感じもしますが、既に 1 週間も予定から遅れているので、とりあえず投稿してしまいます。

今回観たのは、もちろん新作ではなくて、1976 年公開のオリジナル作品の方です。今調べたら公開は 10 月だったみたいです。もし 6 6 日に公開されていたら、1976/6/6 で、このときも 6 3 つ並んだはずですけどね。

映画の中では年ははっきりしませんが、6 6 日の午前 6 時という時刻によって 666 という数字を導いていました。この時刻に、この映画の主人公であるダミアンが生まれます。

そもそも 666 というのは何かというと、ヨハネの黙示録第 13 章第 18 節に書かれた「」の数字だそうです。(この数字については次の記事「666」でもう少し解説します。)

ただ、獣と言っても、ライオンや牛やヤギのような動物ではなくて、「人間である」とも書かれているようです。「オーメン」の中では、666 が悪魔の印として登場していました。ダミアンはこの印を持って生まれた悪魔の子供だったというのが映画の中での設定です。

ちなみに、「オーメン」というのは辞書を調べるとちゃんと意味が載っていて、

オーメン【omen】前兆。きざし。特に、よくないことが起こる前兆。

などと書かれています。「アーメン」を聞き間違えたわけではなさそうです。

以前に 1 度観たときはそれほど面白いとも思わなかったような覚えがあるのですが、今回改めてじっくりと観てみると、作りもていねいで、非常に良くできた作品だと思いました。役者の演技もすばらしく、特にダミアンのお父さん役の人(グレゴリー・ペック)の演技は最高で、ちょっとしたしぐさや何気ない表情からも気持ちが感じられ、いかにも役を演じているというような嘘臭さもありません。この映画の肝ともいえる心理的描写も彼の繊細な演技のおかげでますます引き立ち、とても感動させられました。音楽などもグレゴリアン聖歌風の曲を用いており、独特の悪魔的な雰囲気が出ています。

悪魔をテーマにした映画なので、ジャンルとしてはホラーということになりそうですが、そう思って観ると期待はずれということになるでしょう。私も以前観たときは、ホラー映画を観るつもりだったので「それほど面白くない」と評価してしまったのかもしれません。この映画は、どちらかというと、もっとリアルなサスペンスというジャンルのほうが当てはまりそうです。実際に、「サイコロジカル・サスペンス」とか、「サイコ・スリラー」というような呼ばれ方もしているようです。つまり、「心理的(あるいは精神病的)なサスペンス」ですね。

つまり、この映画の中では、悪魔を人の妄想として演出しているのです。映画を観ていると、いったい悪魔はどこにいるのだろうか?とか、悪魔は何を目的としているのだろうか?とか、いろんな疑問が出てくるのですが、それらに対する答えは最後まではっきりしません。何か、とらえどころのない異様な雰囲気だけがただよっているのです。もちろん、映画の中では 666 という数字が実際に人間の体にアザとして浮かび上がっていたり、心霊写真のようなものが撮影されてその通りに人が死んだり、ダミアンの母親の墓の中に犬の骨が収められていたりと、妄想では片付けられないような証拠もいろいろと出てくるのですが、どうにも腑に落ちないのです。映画の作り手は、観客にわざと証拠を見せ付けながら「悪魔が存在する」と思い込ませつつ、しょせんは妄想でしかないということを、逆にはっきりと訴えているようにも見えるのです。これがホラーだったら、最近の流行では「一番怖いのは人間だ」みたいな落ちで終わるのですが、そのように単純に結論が出せるようなものでもありません。

観客はいったい何を観ているのかというと、実は、ダミアンの父親をはじめ、登場人物の精神がどんどん壊れていくさまをじわりじわりと見せ付けられているわけです。観客はなんだか人事ではないような気がしてきて、身につまされるような想いから恐怖を感じるわけです。映画の中では何人も人が死んだり、首が切断されるようなショッキングなシーンもありますが、そういった部分はむしろそれほど怖くありません。この映画が単なるホラーではないというのはその点からも言えます。

既に古典的とも言える作品であり、当時としてはかなり衝撃的な内容だったのかもしれませんが、最近の映画と比較してしまえば、確かにエンターテイメントとしては見劣りするのも事実です。しかし、私は今観ても非常に考えさせられる質の高い作品だと思いました。当時の世間の評価でも、「人の人生を変えてしまうほどの影響力の強い映画」と言われていたそうですが、その力は、今もまだ衰えていないようです。

ところで、こんなことを言う人もいます。

何より、「悪魔が存在しない」というのは悪魔の作り話だ。

オーメン